日銀・MBA留学を経てスタートアップへ。急成長・Oishii Farmでの挑戦

日銀・MBA留学を経てスタートアップへ。急成長・Oishii Farmでの挑戦

新卒で日本銀行に入行して約7年、ペンシルバニア大学のウォートン校でのMBA取得を経てスタートアップに転職した前原宏紀さん。

前原さんは現在、アメリカ創業のOishii Farm(オイシイファーム)でチーフ・オブ・スタッフを務めており、社長直下で経営全般を支援し日本での資金調達も担当している。

Oishii Farmは高級イチゴの生産・販売を手がけており、2024年12月に新たな資金調達を発表し、累計の調達総額は285億円 (1億5000万ドル)に達している。直近では都内に大型の「研究開発施設」の建設を発表するなど話題を集めているスタートアップだ。
日銀出身の前原さんは、そんな急成長スタートアップで、これまでの経験をどのように生かしているのか?

<プロフィール>
前原宏紀さん
2014年、日本銀行に入行し、国内の金融機関考査や国際金融規制の立案に従事。2021年5月にUniversity of Pennsylvania Wharton校にて経営学修士(MBA)を取得後、2021年12月に10Xに入社し、FP&A基盤の構築や資金調達を担当。その後、2024年にチーフ・オブ・スタッフとしてOishii Farmに参加した。趣味はバスケットボールと温泉巡り。

バスケに熱中「プレイヤーでいたい」

──なぜファーストキャリアとして日本銀行を選ばれたのでしょうか?

父がパブリックセクターで働いていたこともあり、小さい頃から自然と公的な仕事を身近に感じていました。それが私にとっては一つの原風景になっていたと思います。

あとは大学時代の環境も大きかったと思います。東大の教養学部で「国際関係」について学びましたが、同級生にはパブリックマインドを持った人が多くいました。卒業後は官僚やJICA、日本政策投資銀行、NHKなど公共性の高い組織を目指す人が多かったので、自然と私も公共の道に進もうと考えるようになりました。

──周囲からの影響が大きかったのですね。

そうですね。大学生になっていろいろ考えるうちに、自分は非常に恵まれた環境で育ってきたという自覚を持つようになりました。

振り返ると中学・高校は私立の中高一貫の男子校でしたし、家庭や学校、友人など、すべてに恵まれていたと思います。

だからこそ社会に出たら「とにかく社会に広く貢献できる仕事をしたい」という気持ちが強くなっていきました。

──「公共の仕事」と一言で言ってもたくさんの仕事があります。その中でなぜ日銀だったのでしょうか?

霞が関の官僚のように、ルールを作る仕事はあまり自分には合っていないと思ったからです。

私はずっとバスケットボールをやっていて、中学・高校・大学とずっとキャプテンを務めました。コート上で一緒にプレーをして背中を見せる、チームを動かす、そして勝利の喜びを共有する──そういうスタイルに充実感を感じていました。

そうしたバスケの経験から、自分はルールを作る“監督”という役割よりも、現場でチームメイトと同じ目線でリードする立場でいたいという気持ちが強くなっていきました。

パブリックセクターの中で日銀はまさに独特のポジションにあります。監督官庁のようにルールを作れるわけではありませんが、同様に公的使命を持っています。金融システムというコート上でより良い社会を築けるよう、金融機関と同じ目線に立ち、金融機関に働きかけ、説得しながらその使命を果たしていく必要があります。信頼と対話を通じて物事を動かすことは難しいですが、それが自分には合っているなと感じました。

新人時代に学んだ「本質的な課題」を見つける力

──2014年に日銀に入られます。その後7年ほど勤務されますが、日銀時代で印象に残っている仕事について教えてください。

日銀に入行した若手は地方支店に配属されるのですが、私も入行2年目の2015年から1年半、山口県の下関支店に配属されました。そこで経験した地方勤務は、初めて現場を知ったという意味で印象に残っています。

下関支店での私の任務の一つは、地域の経済情勢の調査です。地元企業を訪問して経営状況を把握し、地域経済の見通しを分析します。

山口県には化学コンビナートを中心とした製造業が多く立地しています。日々の仕事で現場の方々と接するうちに、それらの企業が長年積み重ねてきた企業努力と彼ら彼女らの誇りを知るとともに、近隣諸国の企業の急速な成長と壮絶な競争を肌で感じました。東京にいると見えない“地方経済の現実”を体感した貴重な経験でした。

日銀のベテランたちは、単なる数値分析よりも「何が本質的な課題なのか」を徹底的に考え抜きます。Excelを駆使して表面上の数字を扱うのではなく、資料を読みながら「なぜこうなっているのか」というより深い仮説が求められます。

上司が求めているのは数字だけでなく、現場が置かれている状況を正しく理解することでした。現場の課題を踏まえながら「課題を抽出する」という力が圧倒的に鍛えられたと思います。新人の私には浅い仮説しか立てられず、上司からしょっちゅう「その分析はそもそも何をしたいのか?」と突っ込まれていたのを思い出します。

また、その後本店に戻ってから配属された部署で担当した「金融機関への立ち入り検査」を経験できたことは、自分にとって大きな学びとなりました。

写真)社会人になってもバスケットは継続 – 下関支店時代の現地のクラブチーム(後列左から3番目が筆者)

『半沢直樹』のような「立ち入り検査」担当に

──「金融機関への立ち入り検査」の経験とはどのような仕事なのでしょうか?

ドラマ『半沢直樹』の世界を想像いただくと良いかと思います(笑)。

検査チームとして金融機関に1か月ほど常駐するのですが、その金融機関の会議室を1つ借りて、コピー機を持ち込み内部資料を精査したり面談を行います。

検査の目的は、民間の方々からお金を預かる金融機関が、過度なリスクを取っていないか、また適切なリスク管理体制を整えているかを確認することにあります。

地方支店での勤務のあと東京に戻ってから配属されたのが、この「立ち入り検査」を専門に担当している部署でした。

日銀の中でも“特殊部隊”的な位置付けの部署で、メンバーは100人ほどいました。当初、入行数年の若手は私一人だけで、一緒に働く上司たちはバブル崩壊や不良債権処理の時代を経験した歴戦の先輩方ばかりでした。

後に上司に聞いたところ、体育会出身だし「お前ならやれるだろう」ということで試験的に配属したと言われたのを覚えています(笑)。

──すごい環境に配属されたんですね。

初めての出張で一緒になった上司は、100回以上現場を経験してきた大ベテランでした。

最初の打ち合わせで私の資料を見るなり「もういい」と言われ、打ち合わせは5分で終了したのを覚えています。自分のまとめた資料の「スジ」が悪かったんだと思います。それから何度も出張を重ねる中で、「なぜ」を徹底的に繰り返し仮説を深めるトレーニングを受けました。

また、日銀はルールを作る立場ではないので、立ち入り検査をした金融機関に対して「こうしなさい」と命令はできません。最終的には相手に“納得してもらう”しかない。そのためには、資料やロジックだけではなく徹底した対話が必要となります。上司によく言われたのは、「どんなに完璧なロジックを組んでも相手が動かなければ意味がない」ということでした。正しい分析ももちろん大切ですが、“どうすれば相手がこの方向に動いてくれるか”を考えることも同じくらい重要でした。

──「ステークホルダーマネジメント」の力が求められると。

はい。立ち入り検査の現場は、コンサルティングとは真逆の関係性から始まります。

コンサルの場合は、金融機関からの「助けてください」「お願いします」で始まりますが、検査は「来ないでください」から始まります(笑)。

このように対立構図になりがちだからこそ、まず先方がこれまで積み上げてきた取り組みを丁寧に聞くことが大切でした。ただ課題を指摘するのは簡単です。しかし本当に重要なことは、これまでその金融機関が辿ってきたコンテキストを理解し、実際に金融機関が抱えているリソースの範囲内で何ができるかを一緒に考え、実行可能な形に落とし込んでいくことでした。それでようやく、人は動いてくれます。

──金融機関との交渉で、印象的だった現場はありますか?

合併直後の信用金庫を担当したときは本当に難しい状況にありました。内部に派閥や力学があって、どういう順番で誰に話を通すか、慎重に設計する必要がありました。

私の場合は、まず“腹を割って話してくれるキーマン”を見つけることを最優先にしました。内部に精通したキーマンを見つけ、その人と一緒に作戦を立てる。

誰をどう巻き込めば組織が動くのかを一緒に考えました。泥臭いですが、まさに人間関係の仕事でした。

──どのように信頼関係を築いたんでしょうか?

人によって方法は違うと思うのですが、私のやり方は「自分の考えをすべてさらけ出すこと」です。

日銀も金融機関も最終目的は同じで、「健全な金融システムをつくること」です。だからまずこちらの目的や考えをオープンにした上で、「一緒にこの目的を実現しませんか」と伝えるんです。

そうすることで相手の姿勢が変わることがあります。とはいえ、そう簡単には行かないことも多いのですが(笑)。

MBAで受けた衝撃「君は何をしたいの?」

──日銀でやりがいのある仕事をされていた中で、転職を考えるきっかけは何だったのでしょう?

きっかけは社会人6年目に差し掛かった頃に経験したMBA留学でした。ペンシルバニア大学のウォートン校に留学したのですが、コロナ禍の真っ只中にあたってしまい、家にこもって一人で考える時間が増えました。

それまでの人生を振り返ったとき、中学・高校・大学そして日銀と、ひたすら走り続けてきた感じでした。立ち止まることなく、次の目標に向かって突き進んできました。

でもMBAの期間中、初めて立ち止まって“内省”する時間が持てたんです。

大きなきっかけは、2年生のメンターとの面談です。「MBAはやることが多いから、目的を明確にしないとあっという間に終わってしまう。優先順位を確認しよう」と言われ、私は40分くらいかけてMBA留学でやりたいことをロジカルに説明したんです。

すると最後に一言、「で、君は何をしたいの?」と聞かれたんです。自分としては長い時間をかけてその問いに答えていたつもりだったのに、彼女からは「今の答えは全部『期待に応えるための説明』になっていて、君自身の言葉がない」と言われました。

その瞬間、頭を殴られたような感覚でした。 振り返るとこれまでの人生は“期待に応える”ことの連続でした。親や周囲の期待、社会の期待──。「自分の軸」ではない理由で生きてきたのかもしれないと。
恥ずかしながら、29歳になって初めて「自分の人生を自分で決める」ということを真剣に考え始めるきっかけになりました。

──その答えとして「スタートアップへの転職」に行き着いたのでしょうか?

自分の心がどこに向かっているのか探ったとき、「日本社会をより前進させること」に強く惹かれていることに気づいたんです。

スタートアップや教育など、若い人や企業の可能性を伸ばすフィールドで情熱を注ぎたい。そう思うようになって、帰国してから1年半かけてさまざまな人に話を聞き、ボランティアやプロジェクトにも関わりながら方向性を固めていきました。

写真)MBA留学時のクラスメイト- 現在はNPO・公共セクター・ビッグテック・スタートアップなど各自幅広い分野で働いている。

スタートアップ転職で発揮した「環境適応力」

──MBA留学後、日銀には戻らなかったんですね。

はい。MBAの学費の借金をフルで抱えることや、はじめて外の世界に出るということで不安はありましたが、自分の本心に従わないと後悔すると思いました。

帰国後、戦略コンサルティングファームからいくつか内定をいただいていて、周囲からは「まずはコンサルに行くのはどうか」と強く勧められました。ある経営者の先輩には「3年間コンサルに行くのかスタートアップに行くのかは長い人生の中では誤差だよ」と言われたことが印象に残っています。そう言われたとき、私にとってはその“誤差”という生き方の角度が30年後には大きな差になる気がしたんです。

30代前半というタイミングで、自分の心が向く方向に賭けてみよう。そう思ってスタートアップに飛び込みました。

──2021年にスタートアップ・10Xに入社されました。どのような仕事を担当されたんでしょうか?

経営企画のポジションで入社しました。
当時はまだ社員30人ほどの組織でしたが、CFO直下で財務・戦略企画を担当しました。

初の民間企業、初のスタートアップということで、最初は何も分からず、slackやNotionの使い方からスプレッドシートの扱いまで滅茶苦茶でした。

でもトライアル期間中にとにかく吸収し、成長スピードを買ってもらって正式に採用されました。

──日銀出身ならではの「強み」を感じる場面はありましたか?

「立ち上がりの速さ」に強みがあると強く感じました。日銀や霞が関では、まったく異なる領域に急に異動しても、自分でキャッチアップして成果を出す力が求められます。この“環境適応力”は、スタートアップでも非常に役立ちました。

また、日銀で培った「問いを立てる力」「人を巻き込む力」は、混沌とした状況で物事を動かすときに大きな武器になりました。

──逆に、転職時に気をつけた方がいいと感じることはありますか?

スタートアップで成長するには、自分を信じて任せてくれる上司がいるかどうかが重要だと実感しました。
私は上司に本当に恵まれました。CFOの山田さんも社長の矢本さんも尊敬する人格者で、私の成長を真に応援してくれる方々でした。入社してすぐの社長ランチで矢本さんに「会社が従業員にできる唯一のことは機会を提供すること。前原さんが自分らしく活躍できる機会を見つけて、どんどんチャレンジしてほしい」と言われたことは今でも覚えていますし、二人には感謝してもしきれません。

パブリックセクター出身者にとって民間転職は大きな切り替えが必要になると思いますので、“自分の可能性を心から応援してくれる人がいるか”を見極めることは大切だと思います。

アメリカ在住「圧倒的に成長を感じる毎日です」

──2024年にOishii Farmに転職されます。転職の経緯は?

2024年の夏、X(旧Twitter)でたまたま「Oishii Farmの社長室募集」という投稿を見かけて興味を持ったのがきっかけでした。

投稿を見て早速話を聞いてみたのですが、アメリカと日本の架け橋として働けることや、日本の強みを活かしつつアメリカというダイナミックな市場で成長しているユニークさに心を惹かれました。また、日米での経験を持つことや経営企画からFP&Aまで経験してきた自分の強みを大いに発揮できる機会だと感じました。10Xには非常にお世話になっていたので非常に迷ったのですが、上司であった山田さんに「新しい舞台でより大きく挑戦してきなさい」と背中を押していただき、踏み出すことにしました。

現在の役職はチーフ・オブ・スタッフです。社長直下で、経営全般の支援をしています。具体的には資金調達や既存の投資家様とのやりとり、そして経営会議のファシリテーションなどが主な仕事です。

社長の古賀さんはアメリカを拠点にしつつ、日米の政府・投資家や社内のリーダーシップまで幅広いステークホルダーとやりとりする必要があるため、私が資金調達を全面的にリードしつつ、経営チーム全体がスムーズに機能するよう支えています。

写真)資金調達・IRのための中東出張。

写真)半期に一回実施する執行メンバーによる経営合宿。

──現在はアメリカ在住なんですよね。どんな働き方をされていますか?

ニューヨーク市内に住んでおり、基本はニュージャージー州にある本社で勤務しつつ、月に1度、1週間ほど日本に帰国して投資家との打ち合わせを集中的に行うスタイルです。

1日の流れは、朝(日本の夜)に日本のメールをチェックし、午前はCEOとブリーフィング。午後は工場を回り、現場を見ながら経営陣と課題を議論。夜は日本チームとオンラインでやり取りして……という感じです。

忙しいですが、その分充実しています。

──Oishii Farmという会社についても少し教えてください。

アメリカ・ニューヨークを拠点に植物工場を運営しているスタートアップです。
ニューヨークはフレッシュな野菜や果物が不足している地域(ほぼ西海岸から輸送)ですので、そこで高品質かつ新鮮な果物や野菜を育てて提供する“都市型農業”を展開しています。

近郊の工場から新鮮な食材を届けることで、サステナブルで美味しい食のインフラをつくる。そんなミッションを掲げています。

──資金調達も担当されているとのことですが、前原さんはどのような役割を担当していますか?

Oishii Farmは直近では主に日本の事業会社や投資家から出資いただくことが多く、そこで交渉のフロントを担っています。
アグリテックやフードテックという領域はグローバルで見ると投資資金が冷え込んでいますが、日本政府がいま食料安全保障やディープテックを重視しており、日本での投資という意味合いでは非常に追い風になっています。Oishii Farmは日本の強みを世界へ打ち出すという大きな挑戦に取り組んでいて、こうした事業の大きな絵と世の中の情勢の交点を見つけて実行に移していくことは、”なぜ”を繰り返し本質を問うという日銀での経験に通ずるものがあると感じます。

また、現在は経産省や農水省とも連携し、補助金や助成金の枠組みを活用しながら事業を進めています。その意味では、これまでのパブリックの経験を直接活かせている面もあります。

パブリックセクターと民間の橋渡しをしている感覚があり、“社会を良くする”という意味では、日銀時代と仕事の本質は変わっていません。

ただ、今はそれを民間かつグローバルなフィールドで挑戦しています。忙しさは過去一ですが、その分成長実感も過去一です。

──今後の目標と、日銀や霞が関で今後のキャリアを考えている人にメッセージをお願いします。

Oishii Farmを世界的な食インフラ企業に押し上げたいと思っています。植物工場の領域はまだまだ技術革新の余地が多く残されており、今後は日米のチームを軸に様々な企業様と連携してグローバル展開を狙っていきます。また、農業と工業の両方の強みを有する日本にとって、この領域は次なる兆円産業を生み出せるチャンスとも言えます。新卒時代から抱えていた「社会に広く貢献できる仕事をしたい」という想いと、MBAを通じて気づいた「日本社会をより前進させたい」という想いの交点がOishii Farmにあります。そうした自分の夢を少しでも早く実現できるよう、事業に向き合っていこうと思います。

また、日銀や霞が関などで働いている方々に“キャリアの再挑戦”としてスタートアップも選択肢に入れていただけたらなと思います。スタートアップは日々目まぐるしく状況が変化し、混沌とした中で仕事をします。忙しくないと言ったら嘘になりますが、その分、とてつもない成長とやりがいを感じられる環境でもあります。私自身がいつかそのロールモデルの一人になれたら嬉しいなと思います。